会長ブログ
自己に目覚め、自己の道を進む

自己に目覚めることは、やがて社会人生に目覚めることでことでなければならない。
自己の道を進むことは、やがて社会人生の道を進むことでことでなければならない。
自己を愛し、はぐくみ、育てることは、やがて社会人生を愛し、はぐくみ、育てることでなければならない。
(下村湖人「青年の思索のために」)
最近の結婚式は、本当に親しい人たちだけが出席するという形が多くなっているようです。
また、葬儀もほとんどが家族葬になり、一般の人が参列する式は少なくなりました。
私が若かった頃は、特に親しくもなかった同業者の結婚式に招待されたり、生前に親交もなかった人の葬儀に参列するなど、義理のお付き合いで結構忙しかったものです。
本当に喜んでくれたり悲しんでくれたりする人だけで冠婚葬祭を行うというのも、虚礼廃止という意味では、結構なことだと思います。
しかし反面、夫婦の社会的最小単位としての社会性や、亡くなった人が家族以外にも広げていた社会性が、等閑視されるようになってきているのも事実ではないかと思います。
これらは一例に過ぎませんが、総じて現代は内向き志向が大きな流れになっていて、社会的な繋がりに眼が向かなくなっているようです。
しかし、人間が様々な縁によって生かされていることに、今も昔も変わるところはありません。
そういう意味では、昔の方が社会性の自覚が強かったと言えるのかもしれません。
「人間」という文字は、本当に意味の深い言葉で、あなた一人でも私一人でも人間ではなく、あなたと私の間に人間は存在していることを意味しているように思います。
すなわち、人間には、自分だけの人生はあり得ず、人間関係を生きるのが人生であるといっているのです。
それ故、「自己」というとき、いくら自分の内を探しても、そこには自己の抜け殻しかありません。
「自己」は人との関係によって成り立っているのですから、内に向いた視線を外に向けなければ、真の「自己」を見つけることは出来ないのです。
若い人たちの自分探しの旅が、無駄に終わってしまう原因はここにあります。
だからこそ、自分と周囲、あるいは自分と社会の関係性の自覚が必要になるのです。
でなければ、「自己に目覚める」ことも、「自己の道を進む」こともありえないのです。
「自分と周囲」「自分と社会」というものの根源は、「恩」という言葉に集約されると私は考えています。
「恩」にこそ、自己の成り立ちがあるのです。
「自己に目覚める」とは、とりもなおさず自分を支え生かしてくれているものを自覚し感謝することであり、「自己の道を進む」とは、その支え生かしてくれているものに、自分も貢献することに他なりません。
それが「社会人生に目覚める」ことであり、「社会人生の道を進む」ことなのです。
冒頭に掲げた下村湖人のことばは、ここでも当社の理念「『ありがとう』の溢れる会社をつくろう」に通じていくのです。


