会長ブログ
人生の深さ

稲盛和夫と最後に食事をしたのは、コロナ禍の影響もあり、3年ほど前になる。
稲盛が好物のステーキを、ホテルの鉄板焼きレストランでいただいた。
もともと大柄な稲盛が随分瘦せていたが、エネルギッシュで元気な姿に変わりはなかった。
焼酎のお湯割りをいただき、赤ワインも進んだ。
小一時間ほどたった頃、稲盛は、静かに腕を組み、目を閉じた。
1~2分くらいだったか、いやもっと長かったようにも思えた。
おもむろに目を開くと、「よくやったなー。奇跡だなー」と語りかけるようにつぶやき、手を合わせた。
人生をともに走ったすべての人々に贈る、共感と感謝の言葉であったように思う。
(伊藤謙介「稲盛和夫さんを悼む」)
稲盛さんの後を継いで、京セラの社長になられた伊藤謙介さんのこの追悼文を読んで、私は唸らざる得なかった。
私も人並みには頑張りもし、苦労もしたようにも思うが、七十を過ぎた今、「よくやったなー。奇跡だなー」という感慨を手放しでは持ちえないのである。
もっとやれたのではないか。
もっと頑張れたのではないか。
そんな後悔に似たものが、気持ちのどこかに残っているのである。
私が社長に就任した頃は、世間はバブル崩壊後の不況に喘いでいた。
もちろん私も、坂を転がり落ちていくような不況の中で、会社の生き残りをかけて苦しい毎日を過ごしていた。
夢など持てるような状況ではなく、ただ毎年の利益を確保し、社員に給料とボーナスを出すために必死であった。
「だから無理もなかったのだ。
業界でも優れた財務基盤を築き、業界として初めて経営品質賞もいただけた。
そんな会社をつくれたことで満足してもいいのではないか」
そう自分を納得させるのではあるが、残念ながら「よくやったなー。奇跡だなー」と呟くことは私には出来ない。
そういう人生の深い味わいは、私のものにはならなかった。
森信三先生は次のように仰っている。
人生の意義は、自分の全能力を発揮して、それが人のためにもなるということ以外にはない。
全能力を発揮するのは、現実としては、職業を通してする以外にはない。
冒頭に掲げた稲盛さんの感慨の深い味わいは、森先生の言われる「人生の意義」を尽くした人にして初めて持ちうるものだ。
「全能力を発揮して、それが人のためにもなる」ことが、どれほど人生に深さをもたらすか。
幸せとは苦労や困難がないことではない。
出遭う苦労や困難を素直に受け容れ、それらを乗り越えることによって、人生の深さを味わうところにある。
私も晩年と言われるような年齢になって、つくづくそう感じるようになった。
それだけに、社員の皆さんの仕事人生が斯くあって欲しいと願う。
と同時に、会社もそれを受け容れる会社でなければならないと思うのである。
私は社会的に成功することが大事なことだとは思っていない。
世間にどう評価されるかが問題ではなくて、自分が自分の人生に満足できるかどうかが問題なのだ。
自分の可能性を追い求めて全能力をこの世において発揮すること。
それが人生最高の大事だと思うのである。
そして、その自分の全能力を発揮するために必要なのは、追い求める夢であり目標なのだ。
その夢や目標を必死に追うことによって、困難を乗り越えることができ、結果として自分の全能力が発揮されるのである。
私が唐突に売上目標などと言い始めたので、面食らった人もいるかもしれない。
それは社員一人が大きな目標を持とうとしても、会社が高い目標を掲げていなければ、それが実現することはないからに他ならない。
会社の良し悪しは、けっして規模の大小で決まるものではないが、我々が本当に社会的に評価される仕事をしたであれば、それに相応しい結果が必ずついてくるはずだ。
従って、売上高目標をことさら追わなくとも、優れた顧客価値を提供し続けることができれば、必ず達成されるはずなのである。
目前のお客様に誠意を尽くすことによってそれを達成した時に、皆で達成感と連帯感を共に味わい、人生の深い味わいに触れることができればと思うのである。