社長ブログ

森信三語録(十五)

森信三語録(十五)

将来性のある人に

 

教師も平教員時代より、学校の電燈、火鉢の帰り火、水道の栓の閉じ方等々に至るまで、つねに学校の経済を念頭に置く人は、他日相当の人物になるべし。

首席や校長の地位になってから、初めてこれらに気付く程度では唯の人間なり。

(森信三「下学雑話」)

 

この冒頭の言葉は、森信三先生の人間洞察の深さが良く出ています。

教室での教え方が上手い下手よりも、平の教師でありながら、自分が属している学校の経済を念頭に置ける人の方が、将来の見込みがあるというのです。

教え方というのは技術・テクニックの問題ですが、経済が念頭にあるのは考え方・生きる姿勢の問題だからです。

つまり、学校の財布と自分の財布がつながっていることが見えていて、学校の経費を節約することは他人事ではなく、自分の事だということを理解できているのです。

だからこそ、多少教え方のテクニックが優れている人よりも、全体観が身についていて生きる姿勢の正しい人物の方が見込みがあるということになるのです。

 

講演会の後もし座談会あらば、それへも参加する様ならでは、共に語るに足らず。

必ずしも質問するの要はなけれど、他人の質問に対する解答は、十分にこれを聞くべし。

すべて人間は、最後のところを見届けるまでは退くべからず。

(森信三「下学雑話」)

 

講演会の後、その講師を囲んで座談会があった時、その座談会に出席せずに帰るようなことでは、語るに足る人物ではないというのです。

そんな程度では、その講師から学ぼうとする意欲に欠けていて、とても成長が期待できないからでしょう。

学ぶチャンスはそう沢山にあるわけではありません。

そのチャンスを生かそうとする姿勢がない人は、成長意欲に欠けていると見られても仕方がありません。

人間本気になればすべからく徹底するのものです。

当社で行われている研修や勉強会でも、学べるチャンスを生かし切ろうとする人は、将来性の大なる人といってよいでしょう。

 

また、日々の仕事の中で、理解できないことや疑問点があれば、必ずそれを整理し解決しようとするかどうかによって、その人の将来は決まってくると言えるでしょう。

 

書物を買うのみが最上にはあらず。いわんや書物の買い惜しみをする様では、とうてい人生の関所を越ゆべくもあらず。

才の人は、二十代三十代は、才にてごまかせても、四十五十に至りては、書を読まぬ人間は、何としても油が切れて運転は止まるものなり。

(森信三「下学雑話」)

 

現場で職方の追い回しをしているだけなら、それほど深い知識が必要なわけではありません。

よく気が付いて才に長けていれば、立派に仕事ができるでしょう。

しかし、技術的な問題は、多くの場合、才だけでは解決に至ることは出来ません。

難しい問題であればあるほど、深い専門知識が必要になります。

 

また、二十代、三十代であれば、自分で仕事をしていれば事足りることが多いわけですが、それが四十代になってくると人を使って仕事をする立場に立つことが多くなる。

その時、才があれば人が使えるかというとそんな訳にはいきません。

人格的な修養がなければ人を感化して方向を与えていくことはできないでしょう。

その人格を修養するために大事なことの一つが読書なのです。

 

「聞けわだつみの声」(太平洋戦争戦没学生の手記)を読んでいると、二十才そこそこの学生の教養の深さに驚きます。

教養などは無用の長物と思っている人がいるかもしれませんが、思想や哲学をはじめとする教養こそが、「人生の関所」である苦労や困難を乗り越えるベースとなるものです。

日本の戦後の成長は、そんな学生の中で生き残った人たちが成し遂げたものではないかという気もします。

 

ここまで森信三先生のことばを引いて、どのような人が成功するのかを述べてきましたが、煎じ詰めると次の二つに要約できるのではないかと思います。

一つは「我」を手放すことによって、全体観を身に着けた人。

「我」を手放すことによって、相手の立場や全体が理解できてきて、多くの人から応援をもらえるようになるのです。

 

二つ目には、目標を明確に持っている人。

目標が明確であるからこそ、成果がすぐには見えない努力を続けることができるのです。

成果がすぐに上がる努力は誰にでもできますが、成果がなかなか現れない努力は、しっかりした目標を持っている人でなければできません。

そして、その目標を諦めることは人生を諦めることだというくらいの目標でなければ、困難を乗り越えていくことはできないのです。

 

ぜひこの二つを肚にしっかりと据えられるよう心掛けて欲しいと思います。

特に将来ある若い人たちにはそう期待しています。