社長ブログ
森信三語録(十四)
「ありたい姿」を描く
極言すれば教育の意義は、この立志の一事に極まると言ってもよいほどです。
故にまた真に志が立つならば、ある意味では、もはやしいて教え込む必要はないとさえ言えましょう。
というのも真に志が立ったら、自分に必要な一切の知識は、自ら求めて止まないからであります。
(森信三「修身教授録」)
私は、教育においては、「育」こそが大事で、「育」ができれば「教」は必然的に随いてくるものだと言ってきました。
それに気づかされたのは、先に掲げた森先生のこの言葉でした。
人が主体的に自らの「ありたい姿」を描くことができれば、他人にとやかく言われなくとも、その人は自然とその姿に向かって歩き始めるのです。
そして、その願望が強ければ強いほど、その歩みは確固たるものになり、「ありたい姿」が実現するまで、その歩みを止めようにも止められないということにもなるのです。
それ故、教育の要諦は知識を教えるよりも、その人が「ありたい姿」を自ら描くけるように導くことにあるのです。
それこそが、その人が主体性を確立し、自分の人生を真の主人公として生きることなのです。
それでは、「ありたい姿」を描き、それが強い願望になるためには、どうすればいいのでしょうか。
森先生は次のようにも仰っています。
われわれ人間の価値は、その人がこの二度とない人生の意義をいかほどまでに自覚するか、その自覚の深さに比例すると言ってもよいでしょう。
ところで、そのように人生の意義に目覚めて、自分の生涯の生を確立することこそ、真の意味における「立志」というものでしょう。
(森信三「修身教授録」)
「立志」というと大げさに聞こえるかもしれませんが、「ありたい姿」に対する願望も、二度とない人生の意義を自覚することによって、生まれてくるものに違いはありません。
当社の「心と行動の指針」2に次のように書いています。
個人の理念(志)を確立しよう
――なぜ働くのか、なぜ生きるのか
私は、指針のこの言葉に「二度とない人生の意義」を自覚して欲しい、その自覚を深めて欲しいという思いを込めました。
そして、その自覚の下で、仕事の意義を考えて欲しかったのです。
そうして初めて仕事の何たるかが分かってくる、人生における仕事の意義が見えてくると固く信じているのです。
仕事の意義が見えてくれば、自ずとそこから「ありたい姿」が生まれてくる。
私たちは仕事によって、互いに支え合い生かされ合っているのですから、仕事を通じてこそ、人のお役に立つことができる。
そして、人のお役に立つことによって、自分の価値を高めることができるのです。
そして、私たちは一人で仕事をしているわけではなく、会社の一員として仕事をしているのですから、自分の仕事について「ありたい姿」が自覚されれば、当然会社の「ありたい姿」に対する願望も芽生えてくるはずなのです。
その会社の「ありたい姿」を皆で考えて欲しい。
自分の「ありたい姿」があるのであれば、そこには必ず会社の「ありたい姿」もあるはずです。
それを皆で考えることによって、一人一人の歩みと会社の歩みが共鳴し、力強いものになってくるに違いないのです。