社長ブログ
多くのことを成し遂げたい
人情と人情とがからみ合って、マアマアのウヤムヤに過ぎ、叱りもしなければ叱られもしないということになったらどうなるか。
神様ならいざ知らず、おたがいに人間である。
知らず知らずのうちに、ものの見方考え方が甘くなり、そこに弱さと、もろさが生まれてくることになる。
もちろん、私情にかられてのそれはいけないけれども、ものの道理について真剣に叱る、また叱られるということは、人情を越えた人間としての一つの大事なつとめではあるまいか。
叱られてこそ人間としての真の値打ちが出てくるのである。
叱り、叱られることにも、お互いに真剣でありたい。
(松下幸之助「道を開く」)
このところ、連日のように兵庫県知事のパワーハラスメントが報道されています。
自分の地位を笠に着て、理不尽に人の人格を傷つけるようなことは断じてあってはなりません。
しかし、このような大騒ぎの結果、問題化を怖れて叱ることも出来なくなるのであれば、大きな禍根を残すことになるのではないかと危惧もいだきます。
私は以前から、日本人が叱れなくなってきているように感じていました。
それは相手のことを慮って叱らないのではなく、叱ることによって気まずくなることを避けたいという空気が強くなっているように思うのです。
この態度は決して相手のことを真剣に思いやっているのではありません。
人間関係が水臭くなり希薄になって、自分が嫌な思いまでして、相手のために犠牲を払わなくなってきた表れではないかと思うのです。
叱られる方は勿論、叱られることで嫌な思いをするでしょう。
しかし、叱る方もたいていの場合、必ずしも好きで叱るのではなく、嫌な思いをすることを覚悟して叱るのです。
私は人間関係において大事なことは、そこに愛が有るか無いかであろうと思います。
愛というのは、相手の成長を願って、自己犠牲を払うことです。そして、相手の自立を願うことです。
気まずくなるのが嫌さに、叱ることをしないというのは、愛どころではなく、まったくの利己的行為だとさえ言えるのです。
私は、森長工務店が社員の人間的な成長の場でなければならないと信じています。
そんな場であるためには、表面的な仲の良さなど不必要です。
単なる仲良しクラブであっては、それこそマアマアのウヤムヤにすぎて、ものの見方考え方が甘くなり、ついには組織は崩壊することになるのです。
成長に必要なものは、愛なのです。
相手が良くなるためなら、そして全体が良くなるためなら、言うべきことは勇気をもって言う。
叱るのも真剣なら、叱られるのも真剣。
そんな相手の成長を思い、全体を思う、愛ある風土がなければならないと思うのです。